野菜ジュースと玄米粥でガン撲滅に成功したママンが、おまけの人生でみんなに伝えたい事

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父の事 その2

10年ぶりに会った父は、白髪のちいさな老人でした。
ママンは結婚して家を出たあとは、なるべく親子水入らずになった父家族を
そっとしておこうと思って、あまり関わらないようにしてきました。
今まで育ててくれただけで、充分と思っていたのです。
また私がいくと、父は気を使ってしまうし家出はいいたい事もいえないようでしたから。

正直いうと、はじめは父と気づかないほどにほんとうにおじいさんになっていました。

父は涙を流して、「よく来てくれた ありがとう。ありがとう。」
をくりかえし、手を強くにぎってくれました。
しばし以前の家族が勢揃いして、昔話に花を添えた頃
父は幸せそうに、うたたねをしていました。
みんなで、「いい顔して眠ってるね、おねえちゃんにあえて安心したんだよ。きっと」
なんて話していました。
父が起きるのを待って,私たち親子は帰宅したのですが
あくる日、父は呼吸不全を起こして亡くなりました。


父は、昭和8年生まれ。
幼い頃を樺太ですごし、中学生あたりで終戦をむかえましたが
当時樺太は、ソ連からの攻撃にあい、とにかく北海道へにげろという
命をかけた緊急引き揚げをくぐりぬけてきました。
漁船の網元をしていた祖父は、ありったけの船を出して、政府の出した
引き揚げ船に乗れなかった人たちを、道内にピストンで送っていたのですが
最後にソ連につかまり、軍医だった祖母は子供たちをつれて倶知安で病院を
開業しつつ夫の帰りを待ったそうです。
ママンは母が早くに他界したため、そんな祖父母に育てられました。
きびしいけれどやさしい祖母、おしゃれでおちゃめな祖父でした。
祖父はよく手品をしてみせてくれたのですが、右手の親指の第一関節から先がありません。
人差し指のつめもありません。
ママンは「おじいちゃんうっかりして、手品で指を消したあと戻し方忘れてしまったよ」
という話しを本気で信じていたのですが、仁侠映画を見てからというものの
「おじいちゃんはけじめをつけるために、指をなくしたんだ」
と勝手に思っていたものです。
ほんとはシベリアの捕虜収容所で、凍傷でなくしたのでした。

そんな祖父も、74歳のときに胃がんで亡くなりました。
祖母は80まで、医学に貢献してましたが、現役を引退したとたん
あっというまに痴ほうになって83で老衰で亡くなりました。
孫やひ孫に囲まれて,小さい子供はみんな私という自分だけの世界ではありましたが
しあわせそうに旅立っていきました。

この命のバトンは、祖父母から父へそしてわたしへと渡されました。
おもしろいもので、親が両方亡くなるといよいよ私の時代が来たか! なんて思うものです。

本当なら軍医の祖母は、政府の用意した引き揚げ船で道内に逃げられたのに
わざわざ辞退して夫の船にのって樺太をあとにしています。
目の前の泰東丸が、攻撃を受け沈没していく様を見たとき、道内についたときに
先に出向していた小笠原丸ともうひとつの船が、あとから追いかけてきた潜水艦の
魚雷をうけて沈んだ事をきいた時、ソ連が北海道への進撃をしてくると思って
ほんとうに生きた心地がしなかったそうです。
でも生き残った。
そしてその命が、父からママンへ受け継がれた。

ほんというとママンは、母からも命をもらっています。
とうてい体が弱くて子供は無理!といわれた母が、命からがら生んだのがママンです。
まもなくして母は腎不全で亡くなっています。

ここまでして守られた命です。
きっとなにかやらないといけない使命があるのでしょう。
よっしゃ! ひとつやってやろうか。
重い腰をふりあげて立ち上がるときが来たようです。


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