野菜ジュースと玄米粥でガン撲滅に成功したママンが、おまけの人生でみんなに伝えたい事

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これは、なかなかおもしろいです。

題名はともかく、なかみはふかーい話しです。
菅原明子のエッジトーク 苫米地英人 part1


菅原明子のエッジトーク 苫米地英人 part2


菅原明子のエッジトーク 苫米地英人 part3


菅原明子のエッジトーク 苫米地英人 part4


菅原明子のエッジトーク 苫米地英人 part5


菅原明子のエッジトーク 苫米地英人 part6


幸せな人ってのは、なにかあってしあわせじゃなくて
いつも幸せな人の事いうのね。というのはあっていると思いませんか?

父の事 その2

10年ぶりに会った父は、白髪のちいさな老人でした。
ママンは結婚して家を出たあとは、なるべく親子水入らずになった父家族を
そっとしておこうと思って、あまり関わらないようにしてきました。
今まで育ててくれただけで、充分と思っていたのです。
また私がいくと、父は気を使ってしまうし家出はいいたい事もいえないようでしたから。

正直いうと、はじめは父と気づかないほどにほんとうにおじいさんになっていました。

父は涙を流して、「よく来てくれた ありがとう。ありがとう。」
をくりかえし、手を強くにぎってくれました。
しばし以前の家族が勢揃いして、昔話に花を添えた頃
父は幸せそうに、うたたねをしていました。
みんなで、「いい顔して眠ってるね、おねえちゃんにあえて安心したんだよ。きっと」
なんて話していました。
父が起きるのを待って,私たち親子は帰宅したのですが
あくる日、父は呼吸不全を起こして亡くなりました。


父は、昭和8年生まれ。
幼い頃を樺太ですごし、中学生あたりで終戦をむかえましたが
当時樺太は、ソ連からの攻撃にあい、とにかく北海道へにげろという
命をかけた緊急引き揚げをくぐりぬけてきました。
漁船の網元をしていた祖父は、ありったけの船を出して、政府の出した
引き揚げ船に乗れなかった人たちを、道内にピストンで送っていたのですが
最後にソ連につかまり、軍医だった祖母は子供たちをつれて倶知安で病院を
開業しつつ夫の帰りを待ったそうです。
ママンは母が早くに他界したため、そんな祖父母に育てられました。
きびしいけれどやさしい祖母、おしゃれでおちゃめな祖父でした。
祖父はよく手品をしてみせてくれたのですが、右手の親指の第一関節から先がありません。
人差し指のつめもありません。
ママンは「おじいちゃんうっかりして、手品で指を消したあと戻し方忘れてしまったよ」
という話しを本気で信じていたのですが、仁侠映画を見てからというものの
「おじいちゃんはけじめをつけるために、指をなくしたんだ」
と勝手に思っていたものです。
ほんとはシベリアの捕虜収容所で、凍傷でなくしたのでした。

そんな祖父も、74歳のときに胃がんで亡くなりました。
祖母は80まで、医学に貢献してましたが、現役を引退したとたん
あっというまに痴ほうになって83で老衰で亡くなりました。
孫やひ孫に囲まれて,小さい子供はみんな私という自分だけの世界ではありましたが
しあわせそうに旅立っていきました。

この命のバトンは、祖父母から父へそしてわたしへと渡されました。
おもしろいもので、親が両方亡くなるといよいよ私の時代が来たか! なんて思うものです。

本当なら軍医の祖母は、政府の用意した引き揚げ船で道内に逃げられたのに
わざわざ辞退して夫の船にのって樺太をあとにしています。
目の前の泰東丸が、攻撃を受け沈没していく様を見たとき、道内についたときに
先に出向していた小笠原丸ともうひとつの船が、あとから追いかけてきた潜水艦の
魚雷をうけて沈んだ事をきいた時、ソ連が北海道への進撃をしてくると思って
ほんとうに生きた心地がしなかったそうです。
でも生き残った。
そしてその命が、父からママンへ受け継がれた。

ほんというとママンは、母からも命をもらっています。
とうてい体が弱くて子供は無理!といわれた母が、命からがら生んだのがママンです。
まもなくして母は腎不全で亡くなっています。

ここまでして守られた命です。
きっとなにかやらないといけない使命があるのでしょう。
よっしゃ! ひとつやってやろうか。
重い腰をふりあげて立ち上がるときが来たようです。


父の事 その1

こんどとオバケは出たためしがないといわれていますが、
そのこんどが日の目を見る日がやってきました。

お久しぶりのおにぎりママンです。

とつぜんですが、私よりも少し前から、同じガンという病気と戦っていた父が
10月4日に亡くなりました。

父は私と違い、ガンの治療法法として大病院の勧めるところのおまかせフルコースを
家族と一緒に選択していました。
甲状腺がんと診断された父は、はじめゆるゆると治療をしていたのですが
やがて、患部の急な腫れに気道の確保が難しくなり、患部とそのまわりの切除の手術を
することになりました。
わたしは、父に対してそうなるずっと前からガン特有の臭いを察知していたので
もっと体の体液の循環を良くするようにとか、体にいいフラックソルトのお風呂をすすめたりとか
していたのですが、父のまわりはそれを真に受けずに、父のために送ったものを別の親戚に
送ってあげてしまったりしていました。
(それは、父にとって私は前妻の娘なので今の母にとっては私のやる事はうざいだけ
それは、しかたのないことなのです。)

父は手術の前日に、もう話すこともできなくなるからと電話をかけてきました。
ほんの少しの間でしたが、生まれて初めて親子らしい会話ができました。
その時の会話が、とてもうれしくて楽しくて、勇気をもらったと父からの最後の手紙に
書かれていました。

父は、そのあとまるで実験台のようにあの手術この手術、あの薬この薬を使われ
もうぼろぼろになって、手の施しようがないと自宅に帰されました。
本人も、もう家に帰してほしいといったそうです。
結局病院側は、どんどん新しい薬を試してみてデータが欲しいということ
結果を数字で表すのが目的と、わかったからだといっていました。
ガンそのものは小さくなっても、体への負担が重すぎてどんどん弱っていく
そこにまた新しいがんが転移する。そんな日々だという事でした。

最後の一ヶ月は、お医者の薬も痛み止めの座薬のみとして他の薬もやめたそうです。
ママンは、電話のあった8月の終わりより毎日亡くなるまで手紙を書き続けました。

その内容は、励ますというよりも今までの事、死んだ母の事、
父の育て方は、突き放すばかりだったけれどそれが逆に家族以外の人とのなかで
生きていく術を身につける事になって、それがとても現在役に立っている事や
その事への感謝とか、そんな私の事で後悔の気持ちを抱えている父にそんな気持ちは捨てろとか
この世の仕組み、あの世の仕組み、どんなふうに体からぬけたらいいかなど
一度ならず二度までも死にかけた経験を生かし、実際死亡体験をなさっている
彗星探索家の木内鶴彦氏の話しなどもそえて、送り続けました。

亡くなる前日のこと、午前中まで部屋の中を普通に歩いて
飾ってある仏像の修理なんかをしていた父が、急にふらふらとベットに入り
横になったかと思ったら、昏睡状態に入ったと今妻さんから電話があり
「訪問看護婦さんの話しだと、ここ数日だというんだけれど、来るならいまのうちだから」
というので、取る物も取りあえず、主人と息子とで約10年ぶりに実家に帰りました。

つづく

36日目~やんちゃでいこう!!

36日目。

たとえば、体調がおかしくなって医者に行く。
検査に検査を重ねて、大病院を紹介される。
紹介状とデータを持って、大病院にいき、また検査に検査を重ねて
先生にガンと告げられる。
データーなどを見せられながら
ここにこんな塊が、こうこうこんなふうについています。
これはこのくらいの大きさで、ここが源病となっています。
ほかにこことここもきになるところで、ここがこうなるとリンパに影響して
全身にまわりやすくなります。
この状態はステージ○○にあたります。
何もしないでいると余命は・・・

で、これからの治療法はどうしますか?ときて
手術で悪いところをとってしまうか、
抗がん剤で小さくするか
放射線で焼いてしまうか
この3つで決める事をすすめられる。

だいたいこんなところだと思う。

ここでは、ふつう本人の他に奥さんとか
旦那さんとか、しっかりした娘だとか
家族がついていたりする。

本人は、やっぱりそうか。
そうじゃないかと思っていた。
でもそうでなければ良いと思っていたし
そうでないかもと思っていた。
でも現実はそうだった。
そうか自分はガンだったのか、が~ん…
一度言ってみたかったけれど むなしい…

みたいなことが、頭の中をグルグルグルグルして
先生の言う事なんか聞こえちゃいない。
家族と言えば、「ご専門の先生におまかせして。ねっねっ。」
みたいな流れになってしまうのは、当然の事。

ここで、
「すみません、これからのことは二、三日考えて
 家族と相談してきめたいとおもいます。」
と、すぱっときっぱり言える人は少ないと思う。

家族とは、こういうとき
よほど普段から心合わせて、お互いを理解していないと
足かせになる。

ガンと言われたら、その治療法、これからの可能性
最悪どのようにすすんでいくものなのか、
そういう人の闘病記など読んで、
ある程度の展開を頭の中に作って、こうなりたくなければ
こうしておく・・・みたいなことをやっておかないといけない。

これは運命だとか、必然だとか カルマだから
受け入れなければいけないとか、
たいしたことないとか、おおげさなとか
そういう言葉は、五体満足な人がいっていればいい。

がん患者は、そんな悠長な事はいっていられないのだ。
切れば、その部分を一生失う事になるし、自分の中に
自分に制御できない生命体があって、それが内側から
自分の体を蝕んでいくという恐怖は堪え難いものだ。

たとえ気を楽にしようと思っていったとしても だ。

わたしは生きる事に、やんちゃであって良いと思う。
せっかく生まれてきたんだもの
いつかは死ぬとわかっていても、それまであの手この手と
試してみたいし 長生きをしたいと思う。

何もしないで失う事と
いろいろやったけど失った事では
後悔の度合いが違う。
あきらめもつく。
カルマとか、運命とかいうものは
いろいろやった後にいう言葉だ。

何もしないで失うのは
無知故におきた自業自得ぐらいに
思ってしまう。
もっと生きる事にどん欲であれ。

戦いはつづく。

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32日目~ダイエットは掃除から

32日目。

前回のブログにもあったように
わたしは、ちょっと親との縁が薄かった。

なので、その反動もあって今の家族を
とても大切にしている。

川で釣りをしている時、大型船の波が来ると
車いすの息子を置いて、釣り道具一式もって
とっとと高いところに避難する母だったが
とても大切にしているのだ。

息子は オニー!!! とかいうが、
君の体重と波の方向、力、土手の高さなどを物理的に計算すれば
君が波に持っていかれる可能性は、2%もないのだよ。
はっはっは
ちょっとぬれただけだろに。w

彼はいまだに、この事を根に持って
思い出すとぶちぶちいうが、
楽しい思い出となっているのは間違いない。

こんな楽しい母だが
体が丈夫!! とはちょっといいにくい。
家系としては、高血圧とガン、結核に腎臓病。
実際にはご飯の食べ過ぎで肝臓に脂肪がついている。
ちょっと無理すると膀胱炎の針の痛みと血尿に悩まされ
夕方になると、むくんでゾウさんの足になるので
水分とるのが恐ろしいという
あちゃーな体であった。

そこに現在の旦那様が現れて
どんどん健康になっていった。

なにをしたか?

まずは、徹底的なそうじである。
部屋の中のものをぜーんぶだして、
いるものといらないものを分けて
またそれも旦那様がチェックをする。

ほとんど「捨て」だ。

部屋も引っ越し前のきれいな状態までもっていって
きれいにする。
そして、ぜんぜん前とちがう部屋にしてしまった。
彼は機能的な部屋をデザインする天才だと思う。

そして、うちにくる息子付きのヘルパーのおばちゃんが
また片付けの天才で、この二人にあってはかなわない母である。

父母には恵まれなかったママンだが
こういう人には、ありがたいことに非常に恵まれている。
遠くの身内より近くの他人。まさにそのとおり!

他にも、旦那様のスタイルの良さ、着こなしの良さに
あこがれて、自分も~
なーんて気になってしまう。

「気持ちだけならなんとでも。
 結果がすべて!」
とお風呂上がりに体重計にのることと
体重をカレンダーに記入
日々の変動がすぐわかるようにさせられた。

やせましたよ。
体調も良くなり
むくみも消えた。


ただ
旦那様の実家から
「嫁さんをこんなに痩せるほど苦労させて!」
と旦那様が叱られた。wwww
そうじゃないといっても信じてもらえず
まぁ・・・・いいか!

な新婚時代だった。

戦いはつづく。

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